川越の氷川神社の歴史は古く、長禄元(1457)に川越城をつくった太田道灌がすでに和歌を奉納している。江戸時代になってからは、川越城下町の総鎮守として、歴代城主から厚く崇敬されていた。
慶安元年(1648)から神輿が巡行するようになり、同4年に松平伊豆守から祭を仰付けられたといわれ、当時の地おどり唄が伝わっている。
元禄11年(1698)に初めて踊り屋台が出たが、これから年々数寄を好み風流の踊りを催した。やがて上五ヵ町、下五ヵ町と列を定めて花山車、万度、練子、踊り屋台、山屋台、だんじり、唐人揃、竜人揃、造り物を出すようになっていった。
江野梅雪の描いた文政9年(1826)の氷川祭礼絵巻をみると、 |
| ●上五ヵ町 |
| 南町(現在は幸町雪塚会)、喜多町、高沢町(元町二丁目)、江戸町(大手町)、本町(元町一丁目) |
| ●下五ヵ町 |
| 鍛冶町(幸町金山会)、志多町、志義町(仲町)、多賀町、上松江町(松江町二丁目) |
|
のように出番を定めて巡行している。この頃の山車は舁き山、一本柱の笠鉾、勾欄(二つ車、四つ車)、屋台と形式が一定していなかったことがわかる。しかし、各町とも山車のほかにいわゆる附け祭のやり方には明らかに江戸の山王祭や神田祭の影響があらわれている。
江戸時代の川越は松平大和主17万石の城下町として栄えたが、その背景となったのは新河岸舟運によって大消費都市江戸の文化をとり入れ、模倣することによって自らも小江戸と称しその繁栄を謳歌した。
その後天保13年(1842)には十ヵ町が全て勾欄の上に人形を乗せた一本柱四つ車の山車に統一されたことは、氷川神社の祭礼絵額で明らかだ。続いて文久2年(1862)の一枚摺をみると、もう南町と志義町が二重鉾四つ車の山車を作っている。明治になると各町が競ってこれを見習ったが、なかには三つ車で牛に曳かせたものも若干あり、またこの頃すでに附け祭は大分衰え、数台の踊り屋台と幾つかの練り物が出る程度となった。
明治26年の川越大火では多賀町と本町の山車が焼失したが、一方十ヵ町以外の六軒町でも山車を新調。この当時はまだ電灯線も少なかったので、鉾も人形も一杯にせり出したまま練り歩いたことは、明治35年の風俗報の銅版画に見るとおりである。
太平洋戦争後は川越市の市域も広くなり、本町(元町一丁目)の山車が復活したのを最初に末広町、宮下町、連雀町、中原町、西小仙波、松江町一丁目などで続々と山車が新調された。うち10台は大江戸の天下祭の伝統をもつ山車として昭和43年に、埼玉県文化財の指定を受けている。そして川越市をあげての盛大な祭礼となり、また重要な観光行事として各地から多数の見物客が押しよせるようになったのである。
詳しくは。下記「川越まつり会館」の展示をご覧ください。→■川越まつりの見どころ |